第三章 苦悩 第10話
お父さん…と静かな声で呼ぶと、少しいぶかしげな顔をします。そして目をこちらに向けたのですが、その時どれほど震えたか想像がつきますでしょうか。
父は尋ねます。
おう、私を呼ぶお前は誰だ。
もう、後戻りはできません。私は決死の覚悟で申し上げました。
エサウです。お父さんの長男、エサウです。言いつけ通り狩りで仕留めたヤギで好物の料理を作りました。どうぞ、お召し上がりください。
しかし、父は依然として疑っている様子です。声も声だが、狩りして料理をしたにしてはあまりにも早すぎたからでした。知ってはいましたが、だからと言ってぐずぐずしている余裕はありません。チャンスは一度限り。この機会を逃すと、もう二度と来ないからです。父は私の腕を触りました。声はヤコブだが腕はエサウだ、と言いながら繰り返し腕を撫でまわします。私はすぐにでもエサウが入ってくるのではないかと恐怖に震えたましたが、すでに取り返しのつかない状況まで来てしまいました。このまま押し進めるしかありません。やっと父は納得してくれたようで、私が持ってきた食事をすべて食べ終え、最後に差し上げたワインまでもすべてきれいに召し上がりました。
そして、ついに私は祝福、父イサクの最後で最大の祝福をいただきました。私はその祝福の言葉を今でも一字一句すべて覚えることができます。
「神がおまえに天の露と地の肥沃、豊かな穀物と新しいぶどう酒を与えてくださるように。諸国の民がおまえに仕え、もろもろの国民がおまえを伏し拝むように。おまえは兄弟たちの主となり、おまえの母の子がおまえを伏し拝むように。おまえを呪う者がのろわれ、おまえを祝福する者が祝福されるように。」
ああ、この世にこれほど美しく、これほど偉大なる祝福がありましょうか。長子の権利を譲り受けたヤコブは、今や名実ともにアブラハムの子孫、イサクの約束をを受け継ぐ人物に生まれ変わったのです。これで、私は祝福の人、これで、私は契約の人、これで、私は正真正銘の神の人となったのです!
興奮冷めやらぬままの状態で父の部屋から出ていくやいなや、すぐにエサウが入ってきました。それこそ間一髪の差です。
「お父さん!エサウです!父の誇り、父の長子エサウが来ました!今しがた狩りをしたヤギで作った私の手料理を召し上がって下さい。そして私に祝福してください。思う存分祝福して下さい!」
後ろで力強い声が聞こえてきます。私はここまで聞いてから夢中で走りだしました。次に起こることは十分想像できたからです。彼は既に祝福を失いました。奪われたんです。私は長子という名分と祝福という実利をすべて得ることができました。エサウは敗者よ、ヤコブは勝者です。もう誰にも取り消すことはできません。覆すことはできません!
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